Bert's Hellinger's book
『いのちの営み、ありのままに認めて』
ファミリー・コンステレーション創始者バート・へリンガーの脱サイコセラピー論 完全復刻版
究極の癒しは、ありのままを認め、それに同意することから始まる
ファミリー・コンステレーションの創始者バート・へリンガーが語る 「病」「死」「愛」「争い」の本質。「良心の役割」と「魂の秩序」。
どんな命も排除されることのない<いのち>
――すべての固有の命の源――の営み。
ここは、谷口起代が2016年に出版した翻訳本の紹介ページです。
本書では、インタビュワーであるガブリーレ・テン・ヘーフェルが、ワークショップ体験者の多くが持ったであろう疑問を見事に代弁し、大胆に鋭く問いかけ、へリンガー氏のワークの背景にある世界観や生命観、そして人間性を見事に引き出しています。
本書の翻訳の話を私はへリンガー氏自身から直接頂いたのですが、その時に彼から言われた言葉は、「この本を翻訳してほしい。この本を読んで、ようやくヘリンガーのワークが理解できた」と多くの読者が語ったものだから」というものでした。「ここに、すべて書かれているから」と。
バート・へリンガーのワークはその後も進化し続け、近年は「平和への奉仕」としてのファミリー・コンステレーション(New Family Constellations)を、かつての心理療法としてのファミリー・コンステレーションとは異なるものとして区別していますが、それでも本書は今でもバート・へリンガー氏自身が必読書として挙げている一冊です。
※バートへリンガー氏とファミリーコンステレーションについての説明は、下記2005年版の訳者前書きをごらんください。
2005年出版
「脱サイコセラピー論」の表紙
「いのちの営み、ありのままに認めて」は、2005年に出版された「ファミリー・コンステレーション創始者バート・へリンガーの脱サイコセラピー論」の復刻版です。バート・へリンガー氏が2015年に再来日したことにより再版を期待する声があがり、それに後押しされて、タイトルを原著タイトル Acknowledging What Is の原義を汲んだものに変更し「復刻版」として出版したものです。 タイトル変更の背景については下記「復刻版に寄せて 訳者前書き」を参照ください。
【 目次 】
1 解決を手に入れるより苦しみに耐えるほうが簡単
2 「ありのままに敬意を表す」現象学的心理療法
3 誰もが皆それぞれにもつれている
4 〈良い〉パートナーが関係を壊す
5 自分自身との調和を。争いへは招かれていない
6 偉大さは日常の中に
7 前進は罪悪感を伴う
8 〈いのち〉―すべての固有の生命の源
9 魂の偉大さに触れる
10 秩序は創られるものではなく、発見されるもの
11 愛は信頼できる
12 勝利は成功を奪う
13 物知り顔は知を拒む
14 罪も善を生み出す
15 性質の悪い心理-資本主義
16 子は親に属する
17 セクシャリティは愛より大きい
18 憤りから善は生まれない
19 永遠の平和への希望を放棄する
20 幸せとは魂の次元で到達する
21 魂は〈時代精神〉に従わない
22 次世代のために
推薦の言葉
ここ数年の中で、最も衝撃を受けた一冊! タイトル『いのちの営み、ありのままに認めて』の<いのち>とは、訳者が述べているように、いわゆる個人としての「自己」のことではない。「自己」の背後にある「私たちが抗うことのできない大きな力」、「すべての固有の生命の源」、それを<いのち>と呼んでいる。
本書で語られてるのは、その<いのち>の営み、つまり「魂の秩序」についてである。それは普段、常識や道徳といった「社会の秩序」に覆い隠されているが、にもかかわらず、私たちの人生に決定的な影響を及ぼしている。
「社会の秩序」の中で理不尽としか思えない出来事も、「魂の秩序」から見れば、それは起こるべくして起こったものかもしれない。いくら自分が正当だと考えたところで、「問題は、魂がそのように見るだろうかということです」。このような別次元の視点は、自分の生き方を変える力をも与えてくれるだろう。
「私は個人のみに焦点を合わせず、関係性の中に織り込まれている個人を見ます」と著者であるヘリンガーは言う。しかもその関係性の中には、この世を去った死者も含まれている。彼の視点には、単なるセラピーに留まることのない、「人間存在の本質」への洞察が含まれている。
人生や人間関係に行き詰まりを感じている人、現代社会のあり方に疑問を抱いている人、そして「幸せとは魂の次元で到達するものです」という彼の言葉に関心を持つ人には、特におすすめしたい。
この本を読み終わったとき、おそらく多くの人は、同じ世界の中に、全く新しい景色を発見することになるだろう。私もその一人である。永久保存版としたい一冊。
杉原 学 (コピーライター 仮面ライダー)
存在の根源を肯定するパワフルなセラピー「いのち」は何ものにも先行する。そんなメッセージを感じたこの本。
そして、その「いのち」には「絆」があり、その関係性を、他人である代理人を立て、「布置」することで、家族の問題を読み解き、心に働きかける「ファミリー・コンステレーション」。
「絆」といっても、甘ったるい関係ではなく、無意識に命を捧げることも厭わないほど協力な関係性であり、「絆」が「ほだし=束縛するもの」であもあったことを、この本を通して思い出しました。
特に印象的だったのは、「・・・セクシャリティは愛に先行します。そして愛より偉大です。・・・」というバート・へリンガーの言葉命を生み出すセクシャリティをこのようにとらえ、命の絆の中で不当に排除された者や、死者をも家族の図の中に戻してゆく。「いのちの営み、ありのままに認めて」ゆくことで、「ほだし」になってしまった「絆」に秩序を取り戻す。
著作の中では「秩序」という言葉を使っていますが、私は「お互いが自在に呼吸できる空間」のようにとらえました。「社会的な善」や「家族への無視の愛」等の良きものによってさえも、かえって追い詰められてしまった「命」をどのようにしたら取り戻せるのか。
また、彼は子供と大人の境界線についても多く語っていますが、社会制度による良きことと、魂の絆からみる良きことの景色は一緒とは限らない・・・ということもこの本から受け止めることができると思います。私にとってこの本は、「セクシャリティは愛に先行」すると考えなければこの世界、説明つかないことばかりだと思っていたので、気持ちを楽にさせてもらえた作品です。
弓削田 彰子 (なんちゃって修験女)
ヘリンガー氏の洞察は、自分の意志で自らの人生を自由に選択する権利が伝統や歴史に先だって存在する、という西欧近代主義の人間観に対するアンチテーゼを含んでいる。
何か偉大なものが私たちの祖先と両親の中に流れ込み、私たちに<いのち>を渡すのだという。
人間として最も基本的なこの<いのちの営み>に眼差しが向けられる。
本書は、自由な個人という幻想に気づいた現代にとって、次なる思想の拠り所を見出すためのヒントが随所に散りばめられた、西洋近代の個人主義を克服する洞察の書といえるだろう。
谷口 隆一郎 (聖学院大学教授・哲学博士)
復刻版に寄せて 訳者まえがき
2016年6月1日発行 By Kiyo Taniguchi
本書は、2005年に日本で出版された『ファミリー・コンステレーションの創始者バート・へリンガーの脱サイコセラピー論』の完全復刻版です。バート・へリンガー氏が2015年に再来日したことにより再版を期待する声があがり、それに後押しされて、この度、タイトルを変更した「復刻版」として出版する運びとなりました。復刻版では原著タイトルAcknowledging What Isの原義を汲んだ、「いのちの営み、ありのままに認めて」としましたが、その経緯をここで簡単に記しておきたいと思います。
2005年に『ファミリー・コンステレーション創始者バート・へリンガーの脱サイコセラピー論』というタイトルを採用した背景にには、当時まだ限られた人々の間でしか知られていなかったヘリンガー氏と彼のワークの名を広めることが最優先であるという編集会議での合意がありました。
あれから10年の月日が流れ、私たちをとりまく時代の空気は、大きく変わりました。メルクマールとなる出来事や状況のひとつひとつを挙げることはいたしませんが、日本国内はもとより世界情勢を見渡してみても、混沌さが増しています。多くの人びとが、ささやかな幸せを感じる日々の暮らしを紡いでいくことの難しさに直面したのではないでしょうか。それは、個々人の日々の努力や善行の積み重ねの先に、よりよい平和な暮らしが築かれるという理想の限界に気付くことでもありました。と同時に、それは、ひとりひとりを、自らの無力さを認めつつ、生きるうえで本当に守らねばならないものは何かを問い、それを守る暮らしのあり方を模索するという作業に駆り立てるものでもありました。
今、混沌さが増す現代社会の中でも、視野を広げて見渡してみると、あらゆる領域で多くの人たちが、人間存在の本質に向き合い、そこから未来へと続く暮らしを営んでいこうとする取り組みを始めていることに気付きます。そのようなところでは、人間とは、いのちとは、生きるとはといった、人間存在の深淵から生命観を育み直す作業がはじまっています。このように、原著タイトルが時代の潮流に当てはまるようになったと感じたことが、原著タイトルの原義を汲んだ「いのちの営み、ありのままに認めて」というタイトルに変更し、復刻版としての出版に踏み切った理由です。
復刻版のタイトルに、「いのちの営み」という言葉を採用したことにも理由があります。それは、流行している多くの心理療法の「ありのままを認めて」という主張とは異なるということを明確にするためです。心理療法の多くは、クライアントの内側にある、欲求や渇望をありのままに認め、自己実現を促す方向性を持っています。しかし、ヘリンガー氏の生命観では、「自己実現」という概念の基底にある「自由な個人」は近代が生み出した幻想でしかありません。ヘリンガー氏が「ありのままに観て同意すること」を促しているのは、私たちが抗うことのできない大きな力―ー彼は本書ではこれを名づけることはせず、すべての背後にある深淵 (the depth behind everything) だとか、「命の源」と表現しています――からは自由ではないという事実です。この主張は、西洋近代主義の産物である、自由な個人の自己実現という価値観からの脱却を促すものです。
本書では、個々人に属する固有の命、近代個人主義的な所有の概念の中で通常使われているものを「生命(いのち)」、私たちが抗うことができない、すべての背後にある深淵、生命の源といったものを<いのち>と区別して表記しました。この変更に倣って、初版の『脱サイコセラピー論』では「存在は生命を超える」としていた8章のタイトルは、「<いのち>――すべての固有の生命(いのち)の源」と若干思い切った意訳を施しました。復刻版で行った主な修正は、この表記のみです。初版の『脱サイコセラピー論』の訳者前書きは、巻末に挿入しました。当時、まだ限られた人びとにしか知られていなかったヘリンガー氏のワークの概要と価値を、ワークを体験していない方々にむけて紹介することを意図して書いたものです。本書で初めてファミリー・コンステレーションという手法に出会う方は、そちらから読み始めていただくことをお勧めします。
本書が、混沌さを増す現代において、力強く未来へと続く暮らしを営んでいく1つの支えとなっていただけたなら、再版を決断した訳者として、これ以上に嬉しいことはありません。
私の再版への想いを汲み取り、きめ細やかな配慮を持って最善を尽くしてくださった東京創作出版の永島静香さんに心より御礼申し上げます。そして、さいごに、復刻版の出版を応援し、支えてくださったすべての方々に心より御礼申し上げます。
2016年6月 訳者 谷口 起代
2005年 訳者まえがき
2005年5月 By Kiyo Nishizawa
『ファミリー・コンステレーション創始者 バート・へリンガーの脱サイコセラピー論』 (2005年 メディアート出版)の前書きです。当時、まだあまり知られていなかったバートへリンガーと彼のワークを紹介するために、ヘリンガー・ワークショップに参加していない方向けに書いたものです。この、2005年の前書きは、復刻版では巻末に挿入されています。
本書は、1999年にドイツ語で出版されたAnerkennen was istの英語訳Acknowledging What Is を訳出したもので、ファミリー・コンステレーションの開発者であるドイツの心理療法家バート・へリンガーのインタビューの記録である。
原書が出版された当時、ヘリンガーの名は既に、ファミリー・コンステレーションという手法と共に、ドイツだけでなくヨーロッパや北米の心理療法家やボディー・セラピスト等の間で広く知れ渡っていた。ヘリンガーのワークショップは、世界各国からの参加者で盛況であったし、ヘリンガーの影響を受けて、ファミリー・コンステレーションを実践するセラピストも増加していた。
しかし、ヘリンガーのワークに対する評価が、両極端に分かれていたことも事実である。その主な理由は、彼のワークが、通常セラピストが前提としている枠組みにチャレンジしていたからだ。ワークショップを終えた後、参加者は、目の当たりにした体験をどう消化してよいのか途方に暮れる。時には疑問で頭がいっぱいになる。心のどこかで「これは真実である」と確かに感じる一方で、「いったいそれが何なのか」がうまく表現できないといった具合だ。本書では、インタビュワーであるガブリーレ・テン・ヘーフェルが、多くのワークショップ体験者が持ったであろう疑問を見事に代弁し、ヘリンガーに鋭い質問を投げかけ、それに対する彼の答えを巧みに引き出している。「この本を読んで、ようやくヘリンガーのワークを理解できた」という、多くの読者の声が示すとおり、本書の中ではヘリンガーのワークを理解する鍵となる、彼のありのままの人間性が生き生きと描かれている。
ところで、日本ではまだヘリンガーが広く知られていないため、多くの日本の読者の中には、バート・へリンガーは何者であり、ファミリー・コンステレーションとはどんな手法なのか、そしてこの本を読むことが、彼を知らない者にとってどれくらい有意義なのだろうか、という疑問を抱かれている方もいるのではないだろうか。そのような読者のために、簡単にここで、ヘリンガーの経歴と功績、そして彼の人柄やワークの内容について紹介をしておきたいと思う。
バート・へリンガーは、1925年にドイツに生まれた。20歳でカトリックの修道会に入り、以来25年間カトリックの司祭として活動した後、40代半ばで精神分析を学び、その後、多種多様の心理療法を修得した。彼が影響を受けた心理療法のうちで代表的なものは、原初療法、ゲシュタルト療法、交流分析、NLP、家族療法などである。ヘリンガーの手法は、「ファミリー・コンステレーション」という名で最もよく知られているが、この名称自体は彼のオリジナルではない。家族療法の分野では既にこの名称が使われていたし、ヘリンガーもRuth McClendon や Leslie Kadisに師事してファミリー・コンステレーションを学んだ。しかし、ヘリンガーは、固有の学派に固執することなく、人間の生の背後にあるダイナミズムを探求しつづけ、修得してきた様々な心理療法のエッセンスを統合し、彼独自のいわゆる「ヘリンガー・ワーク」を展開するに至っている。時には、NLPの手法を駆使し、ミルトン・エリクソンさながらの逆説的手法で、クライアントの深い部分に揺さぶりをかえ、知らないうちに気付きをもたらせる。そういった彼の独創性と、そして魂の領域にまで達する癒しを提供するワークの深さゆえに、ヘリンガー・ワークは瞬く間に欧米の心理療法家の間で脚光を浴びることとなった。そして、彼のワークは、今や、欧米のみならず、世界各地に広まり続けている。ヘリンガーがこれまでに訪れワークショップを開催した国は、北米、南米、アジア、中東と30か国に及ぶ。また、30冊を超える著書を出版し、そのうちの代表的な作品は10ヶ国語以上の言語に翻訳されている。バート・へリンガーは、まぎれもなく今日、国際的にみて最も脚光を浴びている心理療法家の1人である。
ヘリンガーはファミリー・コンステレーションのワークにおいて、個人が抱える病や苦しみの背景にある家族システムの力動を明るみに出し、それらの要因となっている魂のもつれを解きほぐす。そして、クライアントとその家族が癒しの力を取り戻す手助けをする。ファミリー・コンステレーションは、通常10人から20人程度のグループで行われ、クライアントが家族の代理者を配置することから始まるが、手順についての詳細は本書の最初の章に書かれているのでそれを参照していただきたい。
では、ヘリンガーや彼の手法に特に興味があるわけではないという読者にとって、本書の価値はどこにあるのだろうか?
〈心の専門家〉にとっては、ヘリンガーの集団的良心に関する洞察は、クライアントが持ち込む問題の背後に働く力動を理解し、効果的な援助を提供する上で助けとなることだろう。また、苦しみや病の背後には愛があるという彼の洞察は、苦しみ、痛み、怒りなどに焦点を合わせがちな訓練を受けてきた専門家にとって、何よりも大きな安堵感を与えることだろうし、より落ち着いてクライアントが持ち込む問題に向き合い、効果的な援助を提供する力を与えることだろう。ある者は、「人を援助する」ということの奥深さと限界、そして危険性を学ぶかもしれない。もしくは、苦しみを背負う個人の尊厳を尊重するという謙虚な姿勢が、深い次元で癒しをもたらすことに驚くかもしれない。
心理療法に特に関心があるわけではないという読者にとっても、人間存在の本質について学べることは多いはずだ。本書の中では、ファミリー・コンステレーションという手法についてはもちろんのこと、ナチズム、60年代の学生運動、宗教、親と子の役割というような幅広いトピックについて、ヘリンガーの深い洞察が語られている。これらの洞察を通して、読者は、人生で遭遇する様々な出来事に対する1つの豊かな受け止め方を学びとることができる。たとえば、家族が病に倒れる、アクシデントで最愛の人が死ぬ、自分が思いもよらなかった病にかかる、理不尽な事件の犠牲者となる、戦争にまきこまれる・・・・・・。このようなことが、わが身に降りかかった時、おそらく人が究極的に求めるのは、「なぜ自分がこんな思いをしなければならないのか」という問いに対する答えと、その苦しみから抜け出す方法であるだろう。これに対するヘリンガーの答えは明快だ。「究極の癒しは、ありのままを認め、それに同意することから始まる」――原書のタイトルが意味している姿勢である。
悲劇は起こる。望まなくても。不治の病も、凶悪犯罪も、戦争も。これらは全て人間存在の本質の一部であり、それ自体を善だとか悪だとか言っても、悲劇に見舞われた者の苦しみは癒されない。ヘリンガーがリードするファミリー・コンステレーションは、そんな苦しみを背負った家族が、そのありのままの現実に直面し、そうすることで癒され、強く歩んでいく力を得ることを、そして、どんな不幸や苦しみも無駄に終わることはなく、その重みは脈々と、生命の流れの中で受け継がれていくということを、目の当たりにしてくれる。
バート・へリンガーのワークショップに参加したことのある者は、私自身もそうであったが、自分自身の中の深い次元にある「何か」に触れ、それによって自らの生の担い手として力強く歩んでいく力を受け取る。そして、しばらく月日が経った後、心の奥底で不思議と変化している自分に気づいたりする。たとえばある時ふと、長い間抱えてきた親に対する感情的なわだかまりが解消されていることに自分でも驚くといった具合だ。そして、受け取った生命を十分に生きようとしている自分に気づいたりする。本書が、実際にヘリンガーのワークを体験していない方々にとっても、そのようなきっかけになっていただけたら光栄である。
本書の中でも、ヘリンガーは時に、大胆で厳しい発言をしているが、そんな表面上の厳しい言葉とうらはらに、実際の彼はとても柔和で、しかも詩的な口調で話す。翻訳するにあたっては、原文において説明不足で誤解を招くおそれのある箇所についてのみ補足を加えたが、できる限りヘリンガーの簡潔で温かくユーモラスな口調そのままを、日本語に乗せることを心がけた。訳者の力不足もあろうかと思うが、彼の一語一句が持っている力を感じ取っていただけたら幸いである。
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ヘリンガー氏のワークは、今まさに広がりの芽が出はじめたばかりです。このような状況下での翻訳の道のりは、決して平坦なものではありませんでした。多くの方々の励ましに支えられ出版へこぎつけることができました。すべての方の名前を挙げることはできませんが、本書の価値を理解し出版を快諾してくださった(株)JMAの松島直也社長と担当の橋之口真輔さん、長期にわたる翻訳作業の間ずっと助言と励ましを送ってくれた夫である谷口隆一郎、また、本書の翻訳に関する一切の権限を一任し、遠くから温かく見守り続けてくれたバート・へリンガー氏、それからヘリンガー氏との出逢いの場を与えてくれたHIJの小林真美さんに、この場をかりて感謝いたします。
2005年5月 訳者 西澤 起代